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第7話 一度だけ来た庭

작가: 春野ケイ
last update 게시일: 2026-11-03 20:09:23

「明日の引っ越しのことだ」

二度目の土曜日の夕食で、陸は唐突にそう切り出した。

葵は、グラスを持ったまま顔を上げた。

「湊の、ですか?」

「あの家は、競売で人手に渡ると思っているな」

「……はい。手続きが始まっていますから」

「それは、取り下げられる」

葵は、言葉の意味がすぐにはわからなかった。

「白石家の債権は、すべて神条銀行が譲り受けた。競売を申し立てている債権者も、今はうちだ。取り下げれば、あの家は白石家のものとして残る」

「そんな……それなら、どうして引っ越しの手配を」

「あの家は、お前にとってつらい場所だと思っていた。手放したほうが楽になるだろうと、勝手に決めていた」

陸は、ナイフとフォークを置いた。

「だが先週、お前に言われた。家族のことを、知らないところで決めるなと。だから、この一週間で弁護士に確認させた。取り下げの手続きは、いつでもできる」

そして、まっすぐに葵を見た。

「あの家を残すか、手放すか。お前が決めろ」

胸が詰まって、すぐには声が出なかった。

あの夜、自分が言ったことだ。この人は、それを一週間かけて形にしようとし
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  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第7話 一度だけ来た庭

    「明日の引っ越しのことだ」 二度目の土曜日の夕食で、陸は唐突にそう切り出した。 葵は、グラスを持ったまま顔を上げた。 「湊の、ですか?」 「あの家は、競売で人手に渡ると思っているな」 「……はい。手続きが始まっていますから」 「それは、取り下げられる」 葵は、言葉の意味がすぐにはわからなかった。 「白石家の債権は、すべて神条銀行が譲り受けた。競売を申し立てている債権者も、今はうちだ。取り下げれば、あの家は白石家のものとして残る」 「そんな……それなら、どうして引っ越しの手配を」 「あの家は、お前にとってつらい場所だと思っていた。手放したほうが楽になるだろうと、勝手に決めていた」 陸は、ナイフとフォークを置いた。 「だが先週、お前に言われた。家族のことを、知らないところで決めるなと。だから、この一週間で弁護士に確認させた。取り下げの手続きは、いつでもできる」 そして、まっすぐに葵を見た。 「あの家を残すか、手放すか。お前が決めろ」 胸が詰まって、すぐには声が出なかった。 あの夜、自分が言ったことだ。この人は、それを一週間かけて形にしようとしていた。 葵は、古い屋敷を思い浮かべた。 父が退院したら、帰る場所が必要だ。湊も、あの家から大学に通いたいと言っていたことがある。 「……残したいです」 かすれた声で、葵は答えた。 「父が、いつか帰ってこられるように。湊も、あそこで受験勉強ができるように」 「わかった。業者は断っておく」 陸はそれだけ言うと、再び食事に手をつけた。 それから少し間を置いて、付け加えた。 「明日、俺も行っていいか」 「え?」 「弟が荷造りをしていたなら、戻すのに人手がいるだろう。それに、まだ挨拶をしていない」 次からは先に言う。その約束を、この人はどこまでも守るつもりらしい。 「……はい。お願いします」 葵は、自分の声が少し震えていることに気づいた。 * 日曜日の朝。 白石家の古い門の前で、湊は腕を組んで立っていた。昨夜、電話で事情を話したときには、しばらく言葉にならない様子だった。 黒い車から降りてきた陸は、スーツではなく、紺のシャツに黒いパンツという姿だった。それでも、どこかの雑誌から抜け出してきたように見える。 「……神条さん」 「陸でいい

  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第6話 水色のドレス

    陸がダイニングに戻ってきたのは、十分ほど経ってからだった。 何事もなかったように席に着き、冷めかけた料理にナイフを入れる。 聞かないほうがいい。契約の妻が、夫の交友関係に口を出す理由はない。 そうわかっているのに、言葉が先にこぼれた。 「……西園寺さん、という方ですか」 陸の手が止まった。 「見えたのか」 「すみません。画面が、こちらを向いていたので」 陸は短く息を吐き、ナイフを置いた。 「西園寺美玲。祖父同士が古い付き合いで、子どもの頃から顔を知っている。それだけだ」 「お祖父様がおっしゃっていた、縁談のお相手ですね」 「断った話だ」 陸の声は平坦だった。けれど、それ以上は聞くなと言われている気がした。 葵が黙ってスープを口に運ぶと、陸が続けた。 「来月の第一土曜、西園寺家の主催で慈善パーティーがある。お前も一緒に来い」 「私も、ですか」 「結婚を公にする場にする。神条の妻として、初めて人前に出ることになる」 葵は、スプーンを持つ手に力をこめた。 人前で、神条陸の妻を演じる。祖父の前で一度やり遂げたとはいえ、今度は財界の人間が大勢集まる場所だ。 しかも、主催はあの名前の家。 「土曜日の夕食は」 自分でも思いがけない言葉が出た。 陸が、わずかに眉を上げる。 「追加条項の一つ目です。毎週土曜日の夕食は、一緒にとることになっています」 「……パーティーで食べればいい。俺の隣で」 それで条項は守られる、とでも言いたげな顔だった。 葵は思わず小さく笑いそうになり、慌てて唇を引き結んだ。 * 月曜日の朝。出勤前の陸が、玄関で靴を履きながら言った。 「パーティーのドレスを仕立てさせたい。今日の午後、店の者をここへ呼んでいいか」 葵は、一瞬返事が遅れた。 呼んでいいか。この人が、自分に許可を求めている。 「……はい。お願いします」 「そうか」 それだけ言って、陸は出ていった。次からは先に言う。土曜日の約束を、彼は本当に守るつもりらしい。 午後に訪れた仕立て屋の女性は、いくつもの布見本を広げてみせた。深い赤、上品な黒、華やかな金。 「それから、ご主人様からのご希望がこちらです」 最後に差し出されたのは、淡い水色の生地だった。光の加減で

  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第5話 追加条項

    屋敷に着くまで、陸は一言も話さなかった。 ただ、葵の手首を握った指だけは、最後まで離れなかった。 玄関で車を降りると、陸はようやく手を離した。そのまま振り返りもせずに階段を上がっていく。 葵は、自分の手首を見下ろした。赤くなってもいない。痛くもない。それなのに、つかまれていた場所だけが、いつまでも熱を持っているような気がした。 書き足す。 あの人は、いったい何を書き足すつもりなのだろう。 ほかの男と話すな。笑うな。家庭教師は辞めろ。 どれを言われても、おかしくはない気がした。 * 翌朝。土曜日。 朝食の席に、陸の姿はなかった。 「旦那様は、早朝からお出かけになりました」 三浦が紅茶を注ぎながら言う。代わりにダイニングに現れたのは、桐生だった。 「おはようございます、奥様。社長からお預かりしたものがございます」 差し出されたのは、一枚の白い封筒だった。 葵は、思わず背筋を伸ばした。きっと、昨夜の続きだ。 封を切ると、中から便箋が一枚出てきた。 印刷された書類ではなかった。万年筆で書かれた、几帳面な文字。 【婚姻契約書 追加条項】 【一、妻は、毎週土曜日の夕食を、夫と共にとること】 【二、妻の家庭教師の日の送迎は、夫が行うこと。ただし、夫の業務の都合がつかない場合はこの限りでない】 【三、妻は、困ったことがあれば、まず夫に相談すること】 葵は、便箋を持ったまま固まった。 何度読み返しても、そこにはそれだけしか書かれていなかった。 ほかの男と話すな、とも。笑うな、とも。 「……桐生さん。これ、本当に陸さんが?」 「はい。昨夜遅くまで、書斎で書き直していらっしゃいました」 「書き直して……?」 桐生は、口元にかすかな笑みを浮かべた。 「屑籠が、便箋でいっぱいでしたので」 葵は、もう一度三つの条項を見下ろした。 一つ目の夕食も、二つ目の送迎も、どう読んでも命令の形をしている。けれど三つ目だけは、どこか不器用な頼みごとのように見えた。 困ったことがあれば、まず相談すること。 父の病室のことを思い出す。頼んでもいない特別病棟と、名の知れた主治医。 あの人は、いつも黙って先回りしてしまう。そのくせ、自分には相談しろと言うのだ。 「……ずるい人

  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第4話 書き足される条項

    「仕事は辞めろ」 翌朝の食卓で、陸は新聞から目を上げずにそう言った。 広いダイニングには、二人分の朝食が並んでいる。焼きたてのパンに、湯気の立つスープ。三浦が用意してくれたものだ。 葵は、スプーンを持つ手を止めた。 「どちらの仕事ですか」 「両方だ。もう借金を返すために働く必要はない」 確かに、そのとおりだった。昼の事務の仕事も、夜の家庭教師も、すべては利息を払うためだった。 けれど。 「事務の仕事は、辞めます」 葵は、静かにスプーンを置いた。 「でも、家庭教師は続けさせてください」 陸が、ようやく新聞を下ろした。 「理由は」 「教えている子が、三か月後に高校受験を控えているんです。ずっと一緒に頑張ってきました。今ここで放り出すわけにはいきません」 「代わりの講師なら、もっと優秀な者を手配できる」 「そういうことではないんです」 葵は、陸の目をまっすぐに見返した。 「借金は、あなたに返していただきました。そのことには本当に感謝しています。でも、私の生活まで全部お渡しするつもりはありません」 ダイニングに、沈黙が落ちる。 控えていた三浦が、そっと息をのむ気配がした。この家で、陸に正面から意見する者などいないのだろう。 やがて、陸は短く息を吐いた。 「週に何日だ」 「二日です。火曜日と金曜日の、夜七時から九時まで」 「夜か」 陸の眉がわずかに寄った。夜間の外出は控えるように、と桐生を通じて言われたことを思い出す。 「……帰りは必ず車を使え。それが条件だ」 「ありがとうございます」 葵が頭を下げると、陸は何も言わずに再び新聞を広げた。 その紙面が、さっきから一枚もめくられていないことに、葵は気づかなかった。 * その日の午後、葵は父の入院する病院を訪れた。 ナースステーションで名前を告げると、看護師が申し訳なさそうに言った。 「白石さんでしたら、昨日、特別病棟に移られましたよ」 「特別病棟……?」 案内された最上階の個室は、ホテルの一室のように広く静かだった。窓際のベッドで、父が穏やかな顔で眠っている。 枕元には、担当医の名刺が置かれていた。心臓外科の分野で名の知られた医師だと、葵でも知っている名前だった。 「神条様のご紹介で、今朝から主治医が替わりました」

  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第3話 嘘を見抜く人

     翌日の午後六時。葵は、陸と並んで車の後部座席に座っていた。 左手の薬指には、昨夜受け取った指輪がある。慣れない重みに、何度も視線が落ちた。 神条本家は、都内の閑静な住宅街の奥にあるという。陸は乗り込んでから一度も口を開かず、手元の書類に目を通し続けていた。 沈黙に耐えきれず、葵は小さく尋ねた。「お祖父様は、どんな方なんですか」「嘘を見抜く人だ」 陸は書類から目を上げずに答えた。「余計なことは話すな。聞かれたことだけに答えろ。困ったら俺に合わせればいい」「……馴れ初めを聞かれたら?」「仕事の関係で知り合った。半年前からだ。それ以上は言うな」 半年前。父の事業が破綻した頃だ。 あまりにも出来すぎた筋書きに、葵は胸の内で苦笑した。きっと、この人は最初から何もかも計算していたのだろう。* 本家は、白い土塀に囲まれた広い日本家屋だった。 手入れの行き届いた庭を抜け、長い廊下を進む。案内された座敷の奥に、和服姿の老人が座っていた。 神条宗一郎。八十を過ぎてなお、神条グループの会長として君臨する人物だ。 深く刻まれた皺の奥で、鋭い目が葵をとらえた。「お前が、白石の娘か」「白石……いえ、神条葵と申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」 葵は畳に手をつき、深く頭を下げた。白石家で厳しく仕込まれた作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。 宗一郎は、しばらく黙って葵を眺めていた。「白石の家には、昔、世話になったことがある。あれが潰れたと聞いたときは、惜しいと思ったものだ」 思いがけない言葉に、葵は顔を上げた。「祖父と、お知り合いだったのですか」「古い話だ」 宗一郎はそれ以上語らず、湯呑みに口をつけた。 膳が運ばれ、食事が始まった。陸は相変わらず口数が少なく、宗一郎の問いにも短く答えるだけだった。「相変わらず愛想のない男だ。それで、よく嫁が来てくれたものだな」 宗一郎が、箸を置いて葵を見た。「葵さん。この男の、どこがよかった」 座敷の空気が、ぴんと張り詰めた。 隣で、陸の手がわずかに止まる。 困ったら合わせろ、と彼は言った。けれど、この問いは陸に代わってもらえるものではない。 葵は、昨夜のことを思い出していた。「……言葉は、少し冷たい方だと思います」 宗一郎の眉が、ぴくりと動いた。「でも、私が夕食を

  • 冷徹CEOとの契約満了日に妊娠が発覚しました 〜追う男と消えた妻〜   第2話 身辺調査の理由

    「結婚? 姉さんが?」 その日の夕方。白石家の古い台所で、湊は箸を持ったまま固まった。「相手は神条陸さん。神条グループの社長よ」「神条って……あの神条? なんでいきなり」 契約のことは、誰にも話してはならない。それが条件の一つだった。「前から、お話をいただいていたの。借金のことも、父さんの治療費も、全部助けてくださるって」「それって、姉さんが身売りするってことじゃ——」「違う」 葵は、湊の目をまっすぐに見た。「私が自分で決めたの。だから湊は、進路希望調査を書き直しなさい。医学部、諦めないで」 湊は何か言いかけて、唇を嚙んだ。 二十四年間、葵は弟に嘘をついたことがなかった。これが最初の嘘になる。 午後八時。白石家の門の前に、黒塗りの車が静かに停まった。 運転席から降りてきたのは、陸ではなかった。「社長秘書の桐生です。奥様をお迎えに上がりました」 三十代半ばほどの、穏やかな顔立ちの男性だった。彼は葵の小さなスーツケースを受け取ると、後部座席の扉を開けた。 車が走り出してしばらくして、桐生がバックミラー越しに口を開いた。「いくつか、社長からの伝言がございます」「はい」「まず、社外の方とお会いになる際は、必ず私か三浦にご予定をお知らせください。それから、夜間の外出はお控えいただきたいと」「……ずいぶん、細かいんですね」「奥様のお立場を考えてのことです。神条の名は、良くも悪くも目立ちますから」 桐生は信号で車を止めると、助手席に置いてあった小さな箱を差し出した。 濃紺のベルベットの箱。開けると、細いプラチナの指輪が入っていた。飾りは少なく、内側に小さな石が一つだけ埋め込まれている。「社長からです。明日から、必ずお着けくださいとのことでした」「直接、渡してはくださらないんですね」 思わずこぼれた言葉に、桐生は少しだけ困ったように笑った。「社長は、そういうことが不得手な方ですので」 葵は指輪を左手の薬指に通してみた。 測った覚えもないのに、それは驚くほどぴったりだった。* 神条邸は、都心の高台にあった。 高い塀に囲まれた敷地の奥に、白い石造りの洋館が建っている。白石家の屋敷も古くて広いと言われてきたが、ここは規模がまるで違った。「お待ちしておりました、奥様」 玄関で頭を下げたのは、六十代ほどの女性だった。「家

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